2020年12月08日

かわち野(第七集)―あとがきー 重里 睦子

               あ と が き

 長年ブライダル業界にいた私ですが、とても感動した披露宴がありました。カラオケや余興など全くない、スピーチが三名とピアノ演奏が一曲という、とてもシンプルなものでした。しかし、会場のスタッフまでがサービスの手を止めスピーチに聴き入っていたのを覚えています。
 そのスピーチとは――、
 先ずは、新郎のスピーチを紹介しましょう。
 僕は、結婚披露宴を甘く見ていました。二時間少々の披露宴はつつがなく進み、気が付けば終わってしまっているのだろうと思っていました。僕は新婦と違って色直しが一回少ないから、その間にトイレに行こうと思っていました。が、それが涙に変わってしまいました。
 僕の人生は無限大です(無限大の記号=∞)。末広がりでありながら必ず元に戻ってきます。僕は今まで大変な回り道をしてきました。両親にも心配をかけました。でも、回り道をしたお蔭で掴んだものも沢山あります。
 僕は、ひょっとしたらまた回り道をするかもしれません。でも、これからは、●●(新婦)と一緒にまた元に戻ってきます。そして、「幸せだったなぁ」と言える、そんな一生を送りたいと思います。
 と、その場仕立てかなと思うような話しぶりでしたが、自分の気持がそのまま正直に表現されたとてもいいご挨拶でした。
 この新郎のスピーチを引き出したのは、彼の中学生時代の恩師のスピーチでした。

 次に、恩師のスピーチを紹介します。
 新郎は、中学生時代より、サイクリング、釣り、サッカーに熱中していました。勉学にもまじめに励んでいましたが、特に自転車に関しましては、想像を絶する程のものでありました。
 しかし、中学3年生の時、担任がこんなことを言ったんです。
「君は このままいけばダメになるよ。自転車をやめなさい」と。
 自転車に夢中であった彼に、自転車につぎ込むエネルギーを勉強に費やしなさいと言ったんです。その担任の一言で、彼は今でいうならば〈切れる〉といったところでしょうか、大好きな自転車をやめろと言われて、一人の大人の心無い一言が、彼を大きく変えてしまいました。高校へ上がりましたが、繁華街へ出歩く様になり、髪型、服装、そして目つきまでもが変わりました。そして彼は退学すると言いました。
「僕は大検で大学へ行く、こんな学校やめたるんや!」と。
 ご両親も大変心を痛められました。
 私はサイクリングという、彼とは共通の趣味を持っていました。彼が作ってプレゼントしてくれた自転車に乗って、二人でサイクリングしたこともあります。そんなときの彼は 生き生きとしていたのにと思うと、とても残念でした。
 私事ですが、2年前、国道171号線を自転車で走っておりましたら、トラックと正面衝突をしてしまいました。下半身、相当な打撃を受けたんですが、危うく命は取り止めました。彼が作ってプレゼントしてくれた自転車に乗っていてのことでした。彼が私を救ってくれたんです。彼の魂が入り込んだ自転車が私を助けてくれたんです。
 サイクリングで紀伊半島一周、四国一周、九州縦断などしていた彼が、やがて、旅の相棒を自転車からオートバイに切り替えて、益々行動範囲を広げ、そして旅先の九州に強く惹かれ、九州の大学に進むことを決めました。
 そして、またもやオートバイに関しては、壊れて動かないものを修理して再生するなどの力の入れようでした。
 今、●●●工業に入社、研究という仕事に携わっています。彼は、自分の思い描いた道を、回り道はしたけれど貫きました。
 今日、晴れ舞台を見て、私は本当に嬉しいです。
 と、涙ながらのスピーチでした。新郎のことを本当に愛し見守ってこられた、それがジンジン伝わってきました。
 これ程にまで盛り上げたのは、つまり、彼の歩んできた道のりであります。

 誰にでも紆余曲折があり、その時どきに得た感動が人生を豊かにし潤いを与えてくれるのです。
アイ・マイ・ミー≠ナは、各々の体験談を文章にします。色々な話がありますよ。愉快な話、ジンとくる話、明るい気持ちになる話、スカッとする話、羅針盤となる様な話等々、内容はいつも様々です。そんな中から一人一作品ずつ選び文集Fが出来上がりました。
 毎回の講座では、作品ごとに感想を述べ合い、推敲校正し更に磨きをかけます。すると、思い出がクローズアップされ、自分の人生に誇りを持つことができるのです。幸せに生きるってそんなことなのかもしれません。
 私達はこれまで多くの人々と出会ってきました。そして特に晩年に、書きたい、読みたいという志を同じくする仲間とこの講座で出会ったことは、何と言いましょうか、生きがいを見つけたような、若い頃とはまた一味、二味違った充実感となっています。
 読む、書く、話す、この魅力を追い続けてゆきたいと思います。
 
 最後に嬉しいご報告を添えておきましょう。
 メンバーの文章力、書く意欲はどんどん上昇し、今年度また受賞並びに投稿文掲載がありました。
 ・公益財団法人岐阜県教育文化財団主催 第二十八回岐阜県文芸祭 
  随筆の部 文芸大賞 受賞 「青モミジの中を」 山田 清
 ・第二十三回ふくい風花随筆文学賞 
  一般の部 優秀賞 福井新聞賞 受賞 「朝の一本締め」 徳重 三惠
 ・各新聞社投稿文掲載 数名            
                          以上
 皆で喜び、互いの励みとなっています。

          令和二年三月吉日

                     綴り方と話し方のクラブアイ・マイ・ミー
                      〜「生きるって 素晴らしい!」を実感できる講座〜
                                代 表  重 里 睦 子
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かわち野(第七集)―一葉の葉書ー 岩井 節子

               一葉の葉書

                              岩井 節子
 数年前、一枚の葉書が届いた。
「母が死んで 二年が経ちま した。私は教員をやめて大学院に進学しました。学位取得後に、又教員試験を受けようと思います。留学を夢見ていた母の分も頑張ります。今ごろ、やっと少しずつ前へ進むことができています。励まし、本当にありがとうございました」としたためられ、島崎史子よりとあった。
 学生時代の友人、倫子さんの娘さんからの葉書だった。住所は記されてなかったが、カリフォル二ア大学の葉書だったので、彼女の留学先の見当はついた。
 倫子さんが亡くなって何年も経った今でも、史子さんの大学受験のときの彼女の行動は、自分の死を察してのことだったのかとふと思う時がある。
 倫子さんから、奈良女子大を受験する娘に付き添って奈良に行くから会いたい、と言う電話があり、三十年振りの再会を果たした。史子さんの試験中に、史子さんが間借りするかも知れない下宿先も見ておいて欲しいと言われ、何件か見て回った。困ったときは何時でも、できる限りのことをする心づもりではあったが、その時何か違和感を感じた。だが、それも学生時代と全然変わっていない彼女の容姿や、堂々とした歩き方、にこやかな話し方が嬉しくて、娘を思う親心からと軽く考えていた。
 結局、史子さんは東京にある津田塾大学の方を選んだので、又会う機会はないままに過ぎた。
 そして私が倫子さんの病気と死を知ったのは、史子さんが大学を卒業し、高校の教員として地元長崎に帰ってくると、倫子さんからの電話で聞いてから間もないお正月である。

 あれから何度か奈良に行っては、奈良女子大の前を歩き、彼女と一緒に行ったホテルで一人お茶を飲だ。 
 病気のこと分かっていたのに何で教えてくれなかったん。高校の教え子がサッカーの全国大会に出るとか、娘さんが地元で教員になるとか、電話であんなに嬉しそうに話してくれたのに……と心の中で話しかけながら。
「千の風になって」の歌のように、そこに行けば彼女と会えるような気がしていた。
 私がやっと、友の死のショックから立ち直りつつあった頃、史子さんからの葉書が届いたのだ。そして彼女の葉書に励まされた。

 史子さん、お葉書有り難う。お返事は出さないけれど、遠くからあなたの幸せを願っている人がいる事を忘れないでね。
 倫子さん、あの時会いに来てくれて有り難う。史子さんは良い娘さんに育っていますよ。


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かわち野(第七集)―深い秋ー 山田 清

              深い秋  

                               山田 清 

 十一月下旬、外気は冷たさを増す。
 三年前の秋、少し厚着をした私は、平日の南海高野線・千早口駅に降りた。朝と呼ぶには遅すぎる午前十時、降車したのは私を含めて二人。無人の改札を通り過ぎ、駅前の案内板と地図とを見比べて目的地の確認をした。
 一ヶ月ほど前に、今年の秋は奧河内・九華山地蔵寺の紅葉と決めていた。河内長野市の情報誌『輝く』の表紙を飾っていた写真、『秋色の参道』が決め手だった。それは、あざやかな紅色で溢れていた。
 線路沿いに暫く歩き、天見川に架かる清瀬橋を渡った。橋の下には、川に寄り添うように細い道がある。その道は、長い勤めを終えた翌年の春、これからの自分を探しての街道旅で歩いた道だ。数えればもう七年になる。世界遺産である聖地高野山への参詣道、高野街道だった。
 やっと青に変わった、国道三百七十一号線の信号を渡り、山手へと入った。季節外れのコスモスがまだ咲いている更地。青苔がジャリ道にまで茂っている。熟しきった柿、色とりどりの寒菊。民家はあるのだが、人影はない。鳥の鳴き声だけが静かさの中に響いていた。風景を楽しみながらゆっくりと、山道を登って行った。
 地蔵寺は、山あいの緑を背景とした赤と黄のかたまりの中だった。境内の紅葉は、すでに訪れていた数人の写真家に、その美しさを惜しげもなく披露していた。全てが、あの情報誌の写真と一緒だった。
 門前への道で歩みを止めて見上げれば、柔らかな秋の陽光が、深紅の葉に透き通る。そんな中にもかすかに緑を残した葉があり、黄色い葉もある。木洩れ日がまぶしい。紅葉の美しさは、まさに逆光にある。
 時折、いたずらな風が山裾をわたると、ハラハラと秋が散る。深紅の上に黄色が降り注ぎ、その上にまた赤色が重なる。雨風やきびしい暑さを乗り越えた者達は、生をまっとうしたとばかりに、活き活きと散っていた。懸命に生きた紅葉は、散ってもなお美しい。鐘楼の丘に、塀の屋根にも参道にも、成し遂げた誇りが積っていた。それは、尊敬すべき錦の色だった。
 静かな里山の寺だった、深秋の地蔵寺。
 私は、振り返りながら来た道を戻った。

 地蔵寺の秋を惜しみながら、南海高野線・千早口駅に着いたのは、午後の二時前。
 陽射しはやや西に傾いてはいるが、まだ暖かく帰宅するのには早すぎる。もっと沢山の秋が欲しくなった私は、迷うことなく線路下の道を通り抜けた。
 民家の間の細い道をたどり、山の中腹にある石塔と御堂の寺、薬師寺にお参りした。誰もいない境内は、ただただ静かだった。木洩れ日に照らされた、お寺さんが置いた雑記帳をめくった。同じように秋を探して訪ねてきた旅人の、いくつもの心に触れた。
 私は、薬樹山延命寺を目指した。
 うっそうとして昼なお薄暗い山林の中、上りがあったり下りがあったり、ただ一人歩いた。わずかに聞こえてくるのは、自らの足が土を踏む音のみで、静寂が少々怖かった。林を二つほど通り抜け、畑の間の細い小道を右に折れると、延命寺の参道はすぐだった。
 山門の屋根や白壁の塀の上から、秋があふれ出ていた。夕方近くなるのに、かなりの人だ。ナンテンの葉と実、色付いたドウダンツツジ、そしてイロハ紅葉、それらにお多福ナンテンが加わっての、赤色の競演だ。常緑樹の濃い緑と木造の古い建物が助演する。
 山里の、深い秋は美しい。
 山門を出てしばらく歩くと、野菜の販売所があった。富有柿、白カブに大根、白菜にネギ、干し柿用の柿などが並んでいた。
「この先、この前の台風で道が崩れ、千早赤坂へは行けませんよ」
 同年代と思われる女性の店員さんが話しかけてきた。
「三日市町駅へ行きます」
 この日、はじめての会話だった。
 集落の外れで石垣に腰掛け、販売所でオマケをしてもらった量り売りの焼き芋を食べた。しばらくの間、忘れていた秋の味だった。
 一杯の秋を見つけた、足が重い。
 集落と集落をつなぐ石見川沿いの七曲がりの道。家々や庭の木々に長い日指しがさえぎられ、陰ったりする山間を歩く。
 晩秋の西日が、駅までの道案内だった。           了          
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かわち野(第七集)―先を案じてもー 三浦 佐江子

          先を案じても  
          
                             三浦 佐江子

 梅田の地下道は、夕方4時を過ぎると仕事帰りの人たちで溢れだす。混雑する前に帰りたい。少しでも早くと御堂筋線の改札から、中百舌鳥方面行きへの階段を駆け下りた。電車はまだ来ていない。 
 列の6、7番目に並んで一息つくと、すぐ後ろから、
「ここと違うやろ!」
 刺々しい女性の声がした。何が起きたか確かめたいが怖くて振り向けない。 
「本町で乗り換えやから、ここで間違うてないよ」
 と、しわがれ声が返している。   
 女性は、何度も乗り場が違うとヒートアップ。もしや私も間違いかと、思わず駅の表示を確かめた。そろりと振り向けば、私より年配の夫婦らしき二人連れで、80歳ぐらいの男性は困惑顔だ。  
「本町に行かはるんですか、このホームで大丈夫ですよ」
 そう伝えると、女性は一瞬極まり悪そうな表情を見せたものの、
「ここ、でよかったんですな。わたしら緑橋まで帰るんですわ」
 と話しかけてきた。 
「半年に1回デパートに化粧品を買いに来ますねん。久しぶりに出てきたら、どこがどこやらわからんようになって、梅田はややこしいですなあ、来るたびに違うお店になってたりして……」
「ほんと、ややこしいです。私もよく間違えますよ」
「お宅もですか」
 爆発寸前だったのに、笑顔になっていて胸をなでおろした。電車に乗り込むと、
「お仕事ですか?」と聞かれる。 
「いいえ、とっくに辞めています。今日は買い物です」 
 そう返すと、納得した様子だ。 
 電車が動き出すと、ふらつく妻を、夫がそれとなく支えている。そのやさしさが私にも伝わってきて、温かな気持ちに包まれた。    
「私は、ずーっと働き続けてきましたわ。よう働きました。今日は化粧品を買いに来たんです。半年に1回梅田のデパートに……。お仕事ですか?」 
 とまた同じことを聞くので、同じ答えを返し、難波から南海高野線に乗り換えると言えば、
「遠いですな」
 と返してくれた。芯が強そうで、気配りのできそうなお顔だ。生き生きと仕事をされていたのだろう。
 すると、またまた同じ話を繰り返す。ひょっとして、認知症になりかけかも、と気が付いた。
 夫に付き添われ、梅田までこだわりの化粧品を買いに来るのか。夫は職人風だ。若い時に妻に苦労を掛けた罪滅ぼしか、よっぽど妻のことを大切に思っているのだろうか。これまで共に生きてきたら、お互い支えになっているのかも知れない。   

 私が30年間同居した夫の母は80歳代で、実父は90歳代で認知症になった。二人とも何度も何度も同じことを尋ねた。義母も実父もさぞかし不安なんだろうと思う一方、何度も聞かれると辟易した。多くの言葉を失い、残されたわずかな言葉で、何とかつながりを求めているようだった。
 この女性も、そうなのだろうか。 
 この夫婦を見ていて、10年も前に私の先輩であるヨシコさんが話してくれたことが甦った。  
 ヨシコさんの夫の兄嫁が、認知症で入院した時のこと。兄が病室に来ると「帰れっ!!」と罵声を浴びせ、物を投げつけたという。認知症になる前は、極めて上品な人で、笑い声はいつも「おほほ」だった。絵にかいたような「良妻賢母」で夫には逆らわず、子育て中も怒り顔を見せることも怒鳴り声など、一度も聞いたことがなかったそうだ。 
 兄嫁のあまりの変わりように唖然としたヨシコさんだが、夫に従うだけの良妻賢母は良くない。自分の正直な気持ちに蓋をし続けると、蓋ができなくなった時に我慢してきた本心が噴き出すのは恐ろしい。そうならないために、夫婦はお互いに意見を聞き、話し合えるのが何よりで、対等な関係を築くのが、どれほど大事かを確信したと話してくれた。ヨシコさんの確信は私にも根付いた。           
 ヨシコさんは、子育てを終えた1980年に大阪府の「婦人問題講座」の1期生で、女性学を学んだ。私は講座の5期修了生で、繋がっていた。その後の1993年、ヨシコさんは高齢者問題にかかわるNPOを仲間とともに立ち上げ、今も活動を続けている。  
 我が家には思いやりを見せてくれるが、私の声が届かない夫がいる。   
 我が道を行く人だ。道を歩くときも先導するが、間違った方向に案内することがある。違うことに私が気づいて声をかけても、どんどん行く。何度も繰り返されると、私も考えた。 
「どうぞ行ってね。私はこっちに行くから」と返すことにした。
 2025年の超高齢社会では、高齢者の5人に1人が認知症になるといわれている。認知症になっても受け入れやサポート体制はまだまだ不十分だ。だれもが生きやすい社会には程遠い。
 私が病んだとしたら、夫は寄り添ってくれるのだろうか……。心配性の私は考える。まあ、先を案じても仕方がないか。 

 本町に着いたが、二人は降りそうにない。知らせると、お礼を言われ、「お気をつけてお帰りください」と声をかけた。
 大変なこともあるでしょうが、頑張りすぎず、できるだけ長く日常が続くようにと祈るような気持ちで、ホームを歩く二人を見送った。 

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かわち野(第七集)―雅子姉さんー 松本 恭子

             雅子姉さん
 
                                 松本 恭子           

 卒寿を迎えて、身辺整理が進まず焦りを覚える。階段下の物置に横たえておいた編機、ずい分働いてくれたけれど、未練なく処分することにした。

 編機と言えば、逞しく生きた六歳違いの姉を切なく想いおこす。
 私が北海道の親元を離れ、神奈川県藤沢市の次兄の家に居候し自動車会社のOLだった頃のこと、母から分厚い手紙が届いた。いつも葉書の便りなので何だろうと封を切った。
 駆け足で冬が近いことを告げて、苦労が絶えない姉を案じるあまり、私に頼みごとをしてきた。
「……。祐四郎さん(姉の夫)が又入院したようですが、雅子(姉)から音沙汰が無く、手紙を出しても返事がありません。申し訳けないけれど様子を見てきてくれませんか。くれぐれもよろしく……」と。
 消しては書き直す乱れた文字が、母のはやるおもいを伝えてきた。義兄は病弱で勤めが続かず入退院を繰り返していた。さっそく私は欠勤届けを提出し姉の住む東京へ向かった。
 東京駅の雑踏に揉まれ、複雑な乗り継ぎも何とかクリアして、山手線、上野池袋方面の電車に乗り田端駅で下車。ここから姉の家までは尋ねたずねて辿りついた。しかし、ほっとしたのも束の間で思わず目を疑った。
 表札の横に姉の達筆な字で、「編物承ります」と板きれの看板が掲げてあった。姉は私と正反対で、裁縫系統は苦手で嫌いな筈だった。主婦に納まらず、国家試験で不動産鑑定士、社会福祉士の資格を取得し、職業と家庭を両立させていたのだった。
 玄関の戸がするりと開いて、気配に振り向く編機の前の姉に、私は訪問の理由より疑念が先立ち「編物できるの? 得意なの」と問いかけた。すると、大胆不敵な答が返ってきた。
「注文を受けた毛糸を持って、編物教室で教わりながら編んでいるのよ」
 それには、唖然としたけれど事情をすぐ理解した。
 義兄が結核療養所に入院中で、保育園児の英二、小学二年生の省吾はまだ幼く、今まで頼っていたお姑も亡くなり、家の中で出来る仕事をと思いついた苦肉の策だったのだろう。姉の猪突猛進的な性格は悩むより即実行の方で、おそらく、寝る間も惜しみ夢中で編機を動かし、母への返事を怠ったわけではなかったのだと思う。私はむしろ姉の体を案じた。
 それでも初めての編物が楽しい様子で、息子たちに編んだ地糸が紺色の可愛いセーターを見せてくれた。胸の辺りにモダンな配色で編みこんだ巾二センチ程の淡いピンクの毛糸は、お客様にお返しする毛糸を「お使い下さい」と頂いたのだとか。ともあれ、人の出入りは母子三人の侘しさも紛れたと思う。 
 姉の手を少し休ませ喫茶店へ連れだした。くつろぎながら母の手紙を読んでもらい、気がかりなことを聞いてみた。
「生活、苦しいんでしょう」
「いや、それほどでもないの」
 軽く否定し、持っている鑑定士の資格を町の不動産会社に貸して、時々顔を出し僅かでも収入があるそうで安心した。
 この日、纏まったお金を持参していた。妹が奢る形で会計し、食料品をたっぷり買わせ、残りを暮らしの足しにと姉に渡し、仕事にさしつかえないよう早々に帰ってきた。そして母を安心させる手紙を書いた。

 その後、健康をとり戻した義兄は日立電機に復職すると、順調に勤めていって経理部長の頃、逗子市葉山町の高台に二世帯住宅を建て、省吾(長男)の家族と賑やかに暮らし生活も安定した。だが姉は七、八十坪ほどの畑を借りて無農薬野菜に拘り義兄の身体を気遣った。
 私は洋裁が好きで姉の服をよく縫ってあげた。仕立て上りの服を届けるため、逗子の駅で姉の車を待っていると、畑からの直行が歴然で泥々の半長靴、孫が捨てた漫画キャラ柄の服でせかせか降りてくるなり、「待った? ごめんごめん早く乗って」とせかし、車中とはいえ汚れた恰好で葉山御用邸を横目に走り抜けるのだった。
 畑だけではなく、庭の隅の温室で洋蘭を育て品評会で鎌倉市長賞をとり、陶芸、俳句と趣味も多く、外が明るい間は動きまわっていた姉。この頃が幸せの絶頂だったのかも知れない。
 過去には、切羽つまるとなりふりをかまわず、野菜や魚を担ぎ行商までした時期もあり、一途で男まさりの姉が唯一吐く弱音があった。
「わたしは、父さん母さんの悪い所ばかり似てしまった」そう言い不器量を嘆くと、傍の義兄は「僕は生まれ変わっても雅子と結婚したい」と言う。これまでの姉を知る私はその言葉を霧が晴れるおもいで聞いていた。
 しっかり者の姉の物忘れがはじまったのは、七十代後半からだった。私が大阪から何年ぶりかで上京すると、女の子が欲しかった姉に「わたしの娘」と抱きしめられ病の進行に胸が塞がった。        
 痴呆の病名が認知症と呼ばれるようになり、愛する息子たちさえ識別できず、苦労のすべてを忘れて姉は義兄が待つ天国へ旅立った。
 享年九十四歳の往生だった。
 
 木の葉が散りはじめて、デパートでは早くも冬物商戦のなか、ふと、模様が甥たちのセーターに似た前で足がとまった。
「ほら恭子、英二と省吾のセーターよ、可愛いでしょう」。
 胸の中の姉が元気な声で私を呼びとめた。、
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